人はなぜ学ぶのか
いちおう、この問いに対するボクの答えはこの会に参加する前から持っていまして、それはズバリ
- 楽
です。この漢字をみて「ラク」「楽しむ」の2つのイメージが湧くと思いますが、それがボクの狙い。なんで勉強しないといけないの?、、、という問いかけに対しては
- 将来、人生(仕事)を楽しむためだよ
と答えるようにしてます。逆に言うと、「楽(ラク)」するためではないということ。もちろん、ラクをしたいという欲求は人間なら誰でもあるわけですし、ライフハックというのは仕事をラクにするという側面も持っています。ただ、ラクを目的としてしまうと、人は手を抜くという方向に走りがちになります。特に学びに関してそれがいき過ぎると、たくさん勉強して有名大学に入って有名企業に就職できれば将来「ラク」ができる、、、という発想になってしまいます。学んだ知識はラクをするためのものではなく、その知識を社会のために活かすことが大切なのではないか、、、この点は個人的に気にしていることでして、そういう意味も込めてグループでも投げかけてみました。グループ内では、他に
- 生きるために学ぶ
という意見も出て、「それって楽しく生きるためだよね」、、という話にもつながっていきました。
そもそも学びとは何か?
さらに学びとは何か?という話につながっていき、いわゆる「お勉強」と「学び」は違うのではないかという話にもなりました。「お勉強=学校」、「学び=学校外」という分類ができ、「学びには自主性や楽しさが潜んでいる」という話になりました。その際、なぜ学校での勉強は学びではないのか?という話にもなり、
- 学ぶ目的が見えにくい
- 学びたいこととマッチしない
- 学びたいことと学ばなければならないことの存在
- 先生の雑談は面白かった
- 実は先生も教えたいことと教えなければならないことがあるのでは?
などと話が広がり、学校という場は学びには不適切な場なのではないかというちょっと過激な話にもなりました。
学びとは無駄である
最後に、グループ内では
- 学びとは無駄である
という名言?が生まれました。実は僕が思いつきで書いた迷言ですが、グループ内での話をまとめてみると、自然とこの言葉が出てきました。この言葉がでてきた経緯は次の通りです。
まず、学校の先生の雑談が面白い、、という話が上がったように、雑談というのは無駄な話。でもそこに学びがあるのではないか?また、最近の社会は無駄を省くことが最優先されているが、仕事中の無駄から人とのコミュニケーションや学びが生まれてくるのではないか?そして、「無駄」の基準は人それぞれであり、他人が無駄なことをやっていると思っていても、実はその人にとっては無駄なことではなく学びである可能性がある、、、等々、無駄の中に学びが隠れているのでは?という話になりました。そこからこの迷言がでてきたわけですが(ありがちな言葉のような気もしますが)、個人的にはけっこういい言葉だなと自画自賛モードです(笑)。
この会も無駄から始まった!
この会もはじめにちょっとした無駄なエピソードがありました。最初のアイスブレイクタイムの時、このグループで集まって「日頃の悩み」というテーマでそれらをシートに書いていたとき、隣にいたメンバーがボクのエリアにコーヒーをこぼしてしまったのです。この事から、「おっちょこちょい」という項目が生まれ、そこから「どうすれば彼のおっちょこちょいを治すことができるか?」というグループの悩みテーマが生まれました。で、このテーマから「なぜそのような行動をとったのか」「動きに無駄があった」など意見が出たのですが、結局このエピソードからグループのメンバーは打ち解け、いろいろなアイデアが出ただけでなく、「無駄」というキーワードもその時に生まれたわけです。コーヒーをこぼしたという彼の動きは無駄だったわけですが、それが「無駄」というキーワードを産み出して、以降の「学び」の話につながっていったというこの偶然に、グループのメンバーは皆驚いてましたね。
以上、ちょっとまとまりのない文章になってしまいましたが、「人はなぜ学ぶのか」をテーマに、いろんなものを得た気がします。この会は初参加でしたので、いつもと違うクラスタの方々と出会えましたし、ワールドカフェの手法も参考になりました。
目標まであと5日分
1 件のコメント:
このエントリーを読んで
ゆとりの法則byトム・デマルコ
http://amzn.to/kj1JkC
という本を思い出しました。
未読なら是非
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